【member】K谷(CL)、S村、私
【装備】ツエルト1張、コンロ1台(ガソリン入り)、ザイル9mm×40m 2本、11mm×40m 1本、滑車1台、ユマール3台、ハンマー各自、ボルト各自4本、ジャンピング各自1セット、ハーケン各自6枚、各種ナッツ類各自、アブミ各自3本(カラビナ付き)、カラビナ32枚、制動器各自、シュリンゲ、6mmザイル×5m各自、ヘルメット各自、ゼルプスト各自、クライマーズナイフ各自、クライミンググローブ各自、軍手各自、ラジオ、天気図、羽毛服各自、メタ各自、コッヘル2、水筒各自、ロウソク2本、雨具各自、セーター各自、ウレタンマット1m×2m2枚、固形燃料1個、以下、各自、ルート図、地図、コンパス、ヘドラ、予備電池、マッチ、ライター、非常食
【食料】3日分+各自非常食
【行動計画】6/2 夜行発(きたぐに)、6/3 魚津~ケヤキ平~奥鐘山西壁下岩小屋泊(偵察)、6/4 奥鐘山西壁広島ルート~途中でフォーカストビバーク、6/5 上部草付き~縦走路~ケヤキ平、6/6 下山、6/7 予備日、※雨天の場合、京都ルートを登る
※【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー K谷記】は、会誌「山歩」No.16、1977年7月9日発行、pp9-16より、無断転載。(ゴメンナサイ m(*- -*)m)
【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー (序章)】
自らのすべてを犠牲にして他に尽くす。これを情ある人という。他のすべての人を犠牲にして自らの生きるべき道を生きる。これを無情の人という。人は皆、時として有情であり、時として無情である。今だ嘗て真に有情の人を見たこともなく、又、真に無情の人を見たこともない。
岩をノボる世界では、ノボるという行為はあくまで無情の世界であり、ザイルを結ぶ時、有情の世界が開ける。面白いと思う。大きな岩壁でただ二人がザイルで結ばれている。少しずつ伸びてゆくザイルに、相手の生命が時折確かに反応し、又、消えていったりする。助けてやろうにもザイルを通しての極めて鈍いやりとりしかできない。そんな世界にふと殺伐とした寂しさを感じることがある。
そして、又、山に来てしまった。
昭和52年(1977年) 6月3日(金)天気:晴れ
【コース】京都 2日 夜行 きたぐに ~ 魚津 ~ ケヤキ平 ~ 奥鐘山西壁下岩小屋(泊) ~ 偵察
【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー (第一章)】
それが如何に困難であろうとも、我々は立ち向かってゆかねばならない。何故なら最終的に我々は我々以外には全く通過したことのないルートを切り開いてゆかねばならないのだから。
1977年6月3日 晴れ
魚津の街に雨雲はなかった。宇奈月より黒部峡谷鉄道に乗る。緑々しさが目に痛く、生きているという実感を伴った鮮やかな感激に襲われる。空の青さと峰の白さと緑の葉末。まさに私がこの日のために用意したものと同じ情景であった。
ケヤキ平より黒部川を遡行する。登山靴のまま雪解け水を渡渉してゆく。5分も水中にいると脳天がしびれそうだった。所々デブリの跡が行手を遮り、その巨大な雪塊の中にできた空洞を恐る恐る走り抜ける。ダムの放流時にはこの中を水が駆け抜けてゆくのであろうか。
1時間も歩けば岩壁が見えてくる。遠くに仰ぐ奥鐘山の西壁は鋸の歯のような形をしている。その一つ一つの歯は8m前後のハングをなし、背はのっぺりとしたスラブが立っている。下半身ずぶ濡れになり、2時間弱で基部に着く。
さらに、雪解けで増水した黒部川を土佐男児、T村君が果敢に泳ぎ渡り、ザイルをセットし、後はチロリアンブリッジにて荷物等を対岸に移し、この日の行程を終えた。久し振りに酒のない静かなビバークであった。仰ぐ岩壁も星空の下、黒々とし、ただ威圧的なハング帯がすぐ目の前に見えるだけだった。
昭和52年(1977年) 6月4日(土)天気:晴れ
【コース】奥鐘山西壁広島ルート途中でフォーカストビバーク
【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー (6月4日)】
午前3時起床。まだあたりは暗い。朝食をとりながら明るくなるのを待つ。この瞬間から、日常の生活のすべてを忘れ、1個のクライマーとなる。いつもなら出てくる冗談もなく、心なしか顔も緊張してくる。この一歩、また、一つ一つのホールドが夢にまで見た、常に憧がれてやまなかった奥鐘の壁なのだ。
ここで、話はガラッと変わって・・・・・・
1977年3月 剣岳
馬場島から伊折へ
腐った雪の中に、疲れ切った足を埋めながら
何となく春を感じていた。
低く射した太陽が
昨日までの吹雪のあとに
無性に懐かしく思えたことも
そして、念願だった
積雪期の剣岳登山が
こうして成し遂げられたことも
今の僕に
春を感じさせる十分な理由になるはずだった。
しかし、
ずいぶん長い時間こうして歩きながら感じる、北陸の山路に訪れている春は、
もっと確実なものだった。
それは、
山裾に広がる
黒々としたデブリの跡だった。
山は今、その姿を変えようとしていた。
純白なものから
緑々しい若葉の世界へと
すべてのものが整った
一つの世界からもう一つの世界への移り変わり
それは、確かに冬であり春であり
更には、山の四季であった。
けれども、
そんな完成された世界にはない
このどろどろした黒々しさはどうだ。
こんな強烈な印象は僕を楽しくさせた
あと数百歩でこの山旅は終わる
山は今、春を感じていた
K. みちお
ここで話は再びガラッと変わって、奥鐘のこと・・・・・・
3ピッチ目から壁は極端に悪くなる。ルートファインディングが難しい。しかし、今の我々にあるのはただ登るをいう行為のみである。終了点のことなど全く頭になかった。困難なピッチを通過するたびに、一つの試練が通り過ぎて行くのが確実にわかった。4ピッチ目のトラバースは、ピンが今にも抜けそうだった。5ピッチ目の草付きは、岩が濡れていて、極限的なバランスを要求された。9ピッチ目は全くピンがなく、腕力とバランスで乗り越した。S村、T村、そして小生と、己のすべてを出し尽くしてひたすら攀じっていた。そして、壁は着実に我々の足下にあった。が、別段感激もなかった。11ピッチ目、マユの字ハングから、藤内壁バットレスを思わせるような微妙なトラバースを抜けた時点で、私の時計は8時をさしていた。あと、4ピッチ。なんとしても今日じゅうに岩壁部を抜けたかった。しかし、我々はあまりにも疲れていたし、壁はあまりにも困難であった。今にも外にすべり落ちそうになるテラスで、ザイルでセルフビレーをおこない、ささやかな夕食を取り、眠りについた。左足はアブミに乗ったままで、何度となくずりおち、目覚めては這い上がり、それでもひたすら睡眠を貪っていた。僕の背にはT村がぶら下がっていた。
昭和52年(1977年) 6月5日(日)天気:晴れ
【コース】ビバーク地 ~ 広島ルート ~ 上部草付き ~ ピーク付近でフォーストビバーク(泊)
1日で縦走路まで抜けられず、草付き上部の緩傾斜地でフォーストビバーク。予定外のビバークだったため、水がなく、わずかな残雪をむさぼり食った。
【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー (6月5日)】
快晴。大方の期待を裏切り、今日も快晴である。昨夜、工作をしておいた12ピッチ目をザイルを頼りに抜け、13、14、15ピッチと悪戦しながらもザイルを伸ばし、午前11時、ついに岩壁部分の登ハンを終了する。予定通りの速度である。あまり、感激もない。唯ノボるべくしてノボった。そんな感じであった。思えば、穂高岳屏風岩、谷川岳衝立岩とより困難な岩壁を求めて自分の青春をかけてきたのが、やっと国内におけるバリエーションに一つの区切りが打てたのだ。ずいぶん前、山歩に書いた文章の一つが頭に浮かんでくる。”僕は他人に教えるほどの優れた技術は持たないが、他人に教えてもらう程の未熟な技術ももたない。” そして、今。
我々は奥鐘山西壁の終了点にいた。暑さとのどの渇きの中で、僕は前のことばにつけ加えるものを考えていた。”長い登攀生活の中で、今、最高のザイルパートナーにめぐり合うことができた。” 恐らく、今回の3人程まとまった、そして、技術的に優れたクライマーは山歩会に出てこないだろう。おこがましいようだが、山歩会の、いや、京都の最強のトリオによってなされた今回のクライムに、私は誇りと自信を持ったし、来年のアンデスが一層身近なものに思えてきた。
【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー (終章)】
それからのブッシュのつらさは敢えて書くまい。涙も唾も涸れ果てて、我々は奥鐘山の頂上でビバークせねばならなかった。単に体力の無さというより、見通しの甘さもあっただろうし、それ以外のアクシデントもあった。しかし、朝から殆ど飲まず食わずの行動の果てにぶっ倒れた。このフォーストビバークの夢の中で、私は敗けなかったという雄叫びにも似た感激で溢れていた。人間と人間が、1本のザイルで結ばれ、精神的にも肉体的にも相当のダメージを受けながらも、互いに励まし合えたし、支えあえたことも素晴らしかった。我々は常に飢えていなければならない。それだけの精神と肉体と技術を持ちえた者のみが、より先鋭的なクライムを行うことができるのではなかろうか。T村もS村も、この登攀を終えて一段と大きくなった。我々はクライマーとして今、同一線上に並んだ。これからは3人で世界に挑戦してゆく番である。
昭和52年(1977年) 6月6日(月)天気:
【コース】縦走路 ~ ケヤキ平 ~ 魚津 ~ 沢渡 ~ 京都
【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー (6月6日)】
帰りの電車の中で、我々は、唯、飲み物と眠りを友としていた。
Adios! 奥鐘。Adios! 黒部の川。そして、Asta la vista!
奥鐘おう。1977年6月、山歩会、奥鐘山西壁に足跡を残す。
(完) K谷 記





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