1977年3月の山行について

1977年3月には、大きな2つの積雪期登山に参加したらしい。これらは、記憶も写真も残っておらず、唯一、会誌「山歩」の記事から推測されるものである。

まずは、積雪期の早月尾根~剣岳。前年、11月にこの山行のための荷揚げの記録を写真とともに記述した。この山行は、後述する「山歩」の記事によると、当時、岩登り集団として活動していた、山歩会Rock Climbing Company(SRCC)が、アンデスの未踏峰遠征を計画し始めた時期で、そのためのSRCCの雪山合宿として剣岳山行を行ったようだ。この年、6月の奥鐘山西壁のK谷氏の記録のなかで(※【有情・無情 ー奥鐘山西壁広島ルート登ハンの記録 ー K谷記】は、会誌「山歩」No.16、1977年7月9日発行、pp9-16)、「1977年3月 剣岳」という詩として、登場する。ただし、メンバーの記述はない。

次は、前年12月に敗退した冬山合宿のリベンジをしたようだ。これは、「山歩」を引用しよう。

※【プレーオフ ー我々6人がいかにして京都駅に集まったか ー S戸記】は、会誌「山歩」No.16、1977年7月9日発行、pp34-38より、無断転載。(ゴメンナサイ m(*- -*)m)

【プレーオフ ー我々6人がいかにして京都駅に集まったか ー】
’76年山歩会冬山合宿、槍ヶ岳パーティーのあの勇気あるとも、又、チョンボの末ともいわれる大敗北的山行から帰り、π氏率いる奥美濃パーティーの山歩会史上初の、下山予定日超過山行兼遭難対策訓練も一段落した、暮れも押し詰まったある日の昼過ぎ、私は西春菜町の下宿から高原町のAトシ邸へおもむいた。彼は以前から大学最後の山行として、3月の北鎌に行きたいと言っており、私も誘われていたのであった。しかし、’77の春には、S.R.C.C.が主体となって剣への遠征が予定されており、ほぼ同時期の北鎌は、会の組織面から、又、memberの面及び個々の技術的な問題、さらには装備の面からも実現は難しいと思われた。そこで、私は、先の槍attack失敗の山行を踏み台として、再度、横尾尾根からの槍のattackを3月に決行しようとAトシに持ちかけたのであった。彼は冬山には参加しなかったが、私としては何としても雪辱したかったし、他の冬山参加者にも同じ想いの者がいると信じたからである。天狗原のコルまでは一度行っているので、その点も有利だった。私の計画をAトシ君は快諾してくれた。さて、そこで問題になるのはLeaderであった。特にattack時の槍の穂である。私も気概はあったが、技術的には全くダメであった。Aトシ君も岩稜なら自信はあるがと言った。また、予想されるmemberとなじみが薄いという点でも難があった。どうしてもS.R.C.C.あたりから一人引き抜こうということになって、我々が白羽の矢を立てたのは、K山であった。次期冬山合宿Leaderの最有力候補であったし、その時京都にいる人間で下宿が近いということもあったかもしれない。二人で叡電沿いのK山の下宿に行くと、彼も又、この雪辱山行には賛成であった。しかし、C.L.となることには同意しなかった。彼は当時2回生で、目上の者が少なくとも2人いたためもあったようだ。話し合いの末、attack 時には attack 隊長として、全指揮権をK山に委任するということで、C.L.は私がやることになった。これだけメンツがそろえば冬山経験者であれば全員で登頂は成算は十分あった。たとえ、私が C.L.であっても。

明けて1月の10日すぎの午後、山行計画書がはり出された。人数はカマ天一発8人までであった。これは冬山の経験から何としても1テントでという結論に達したためである。反響は予想以上に大きく、翌日の昼休みには定員いっぱいになった。それは、上記3人の他、T村、K尾、K藤、K村、K保の5人であった。さらに午後になって、Mヤがぜひ入れてくれと言ったので、補欠とした。中でもTヤンの参加表明は心強かった。また、Kヲ以外は全員冬山槍Partyのメンバーだった。Kヲは、しかし、奥美濃の遭難のショックを乗り越えての参加表明であった。ちなみにπは4月になるまでションボリしていた。この時点でこの計画は “行きたいなあ” の山行計画から、 “行くのだ” の山行計画になった。母胎内にあったものが外気に触れるようになったのだ。社会の荒波にもまれつつ、育て、成人させねばならないのだ。(と、その時は思った。)

本当の山行記はここから始まるのであるが、一度、いかに計画が立案されるかということを書きたかったのと、大分長くなったので、以下、要点のみ記す。
〇プレ山行、2月10~11日。比良中谷遡行、「氷瀑登攀!」などと叫びつつ出発したが、みんなはまってベチョベチョになった。
〇メンバー:K藤が不参加を表明。Mヤ繰り上げ当選するも、Ski-Mateで足首をねんざ参加断念、Aトシ君就職のこともあり都合つかず、結局メンバーは6人。カマ天からウィンパーになる。
〇食糧:軽量化によるスピードアップのため、横尾尾根取付いて以後は、α米多用。横尾小屋に2日分の食糧をデポ。

〇直前に Ski-Mate があり、直後、ホーオーParty がカマ天を使用することになっていたため、3月9日夜、出発。23日最終下山予定となる。Ski-Mate から6日朝帰ってきて、9日夜の出発に関しては、批判もあり、反省しております。
〇コース:雪崩の危険を極力避けるためと、冬山と全く同じコースではおもろないという意見のため、横尾尾根末端取付き、クソガリー直前が今回の山行中最もシビアーであったといわれている。クソガリー以後は、トレース、フィックスザイル有り。
〇天狗原のB.C. より一発アタック。稜線は烈風のため雪、全くなし。槍の穂も結局ノーザイルで登る。
〇晴沈(はれちん):アタック前日、その前日も横尾の歯を越えるだけで、3日間行動だったが、K保の不調及び天候は崩れないという判断で晴沈。沈の日は2食(しかも、ホットケーキ+クズラーメン)という悲惨な食事。マッサージでひまをつぶす。
〇下山:思い出のクソガリーを下る冬山で3時間半のラッセルだったのを20分余りで下る。
〇松本:中の湯~沢渡間が最大の難所(?)。K山の前1mにこぶし大の落石。あわててメット着装。非常に怖かったねんのねん。松本であわれをとどめたのはLeader S戸君。クソガリーのシリセードのためか発病。フロ屋で(オカメの湯は休みだった)治ったかに見えたが、例の “まつば” では針のムシロだった。
〇マッサージのすすめ:春山晴沈でのマッサージは非常に有効だった。夏山でも一般に高山病といって頭痛やはき気をもよおすが、ザックによる血行不良も多いのではないか。また、マッサージの翌日の足の軽さは気分的なものではないと思う。
〇反省:Leaderとして結局ほとんどK山君におんぶしてしまたこと、その他多くのことを反省しま~す。
山歩会槍ヶ岳初登頂万歳!! (おわり)  S戸 記

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いよいよアンデス遠征の計画が動き出し、狂ったように山に出かけ、下界では、資金集めのアルバイトに忙しく、山行記録や写真を整理する余裕もなかったのだろうか。それとも、遠征の準備のための山行は、本番に比べるべくもなく、記録するだけの印象も歓びも薄かったのだろうか。
ただ、毎晩酒だけはかっ食らって、夜な夜な議論していたような気がする。

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